“良い道具”であるための研究をしたい 女性研究者が探るデータの未来
プロフィール
- 羽田野 祐子 システム情報系 教授
- 東京大学工学部原子力工学科卒。東大工学部助手、米国ハーバード大、ロスアラモス国立研究所、理化学研究所 基礎科学特別研究員を経て2000年より現職。
ここ数ヶ月、五十肩のため右手が痛くて上がらず、新年度からの板書ができるか心配です(笑)
放射性物質の「動態」を研究する
原子炉の設計や核燃料の製造技術など、原子力エネルギーの工業利用や放射線による測定技術や医療技術など、原子力工学の分野は多岐に渡っている。
羽田野先生が研究している「動態研究」という分野は、大気中に放出された放射性物質が、一定期間でどのように・どれくらいの量が移動するのかを探るものだ。世界ではフランスと日本で盛んに研究が進められている。
羽田野 「原子力発電所で事故があった場合、核分裂生成物(Fission Products)というものが大量に放出されます。その代表的なものがセシウム類(セシウム134/137)ストロンチウム類などです。」
セシウムなど核種と呼ばれる放射性物質の拡散は、事故の起こり方や地形・気象などの環境により様々な動き方をする。たとえば放射性物質の温度が非常に高温である場合、水が蒸発するように放射性物質自体が粒子となって動くこともある。また、放出された物質がとても小さな場合はダストと呼ばれる空気中の塵に付着して動くこともある。
羽田野 「大気中に放出された放射性物質は、地表に沈着したり、雨によって川に流れたり地中に浸透し、また植物に吸収されたり地下水に入ります。これらの物質は最終的には海に流れていきます。また、最近では再浮遊といって、空気中のダストに付着したセシウムが、風によって再び空中に漂ってしまうことも注目されています。」
特に再浮遊は繰り返し発生するため、大気中のセシウム濃度が下がりにくい原因であると考えられている。
長期的な予測の難しさ
核種の動態研究において、長期に渡る動き方を予想することは非常に困難だと言われている。
主な理由は2つ。まず、大気中に放出された核種の動きは、事故が発生した場所の地形や気象環境などにより様々に変化するため、予測に必要な実測データの種類が膨大になってしまう。さらに、そもそも実測データは事故が起こってからでなければ測定する事ができないため、事故発生から長期予測を行うまでには長い観測期間が求められてしまうのだ。
これまで実際の観測でわかってきたことは、大気中に放出された核種は、時間が経過するにつれ減衰カーブが緩やかになっていく。(図参照)
つまり、「大気中の核種の濃度はなかなか下がらない」ということだ。これは再浮遊がその原因のひとつと考えられている。
「長期予測に必要なパラメータの種類が膨大」「事故後の短期間では長期予測のためのデータ自体が無い」という条件の中、羽田野先生はそれでも長期予測の精度を上げることは「やらなくてはならないこと」と語る。
羽田野 「長期予測はやらなくちゃいけないことなんです。だって、原子力の事故は普通の事故とは違うんです。原子力の災害はその後何年も影響が残るもので、ひとたび汚染が起こればその10年後まで問題になる可能性があります。とにかく長期の予測が原子力工学には必要でした。」
ルームメイトの「散らかし癖」が発見のきっかけ
羽田野 「きっかけはハーバード大学に留学をしていた頃です。同じ部屋にロシア人の物理研究者がいたんですね。それで、その人は部屋を散らかす性分で、私の棚の上にまでその人の書類がはみ出してきている状態だったんです。ある日、いい加減片付けた方がいい!と思って整理していたら、ある表が落ちていたんです。セシウム137と書いてあって、日付と数字が並んでいました。これは何?と聞いたら「チェルノブイリの実測値だ」と。しかも10年近く測定したデータだったんです。こんなデータがあるのか!!とすごくびっくりしました。」
長期予測に必要な「長期間の実測データ」を思わぬ所で発見した。長期の観測データがあれば予測モデルを作るための手がかりを探す事ができる。さらにヒントを得るため、羽田野先生はそのデータを使った別の研究について調べていった。
羽田野 「論文を調べていくと、そのデータを使って統計解析をしたというペーパーを発見しました。それは、チェルノブイリのある場所でセシウムの濃度を3年〜4年間定点観測したデータが、どのようにゆらいでいるかを統計的に解析したものでした。その結果、ゆらぎにはフラクタルな性質がある、ということが示されていました。それを見て、短期間の実測データにフラクタル性を発見する事ができれば、それを拡大・延長する事で長期予測ができるかもしれない、と考えました。」
フラクタル性を導きだすハースト指数
フラクタルとは「特徴的な長さが存在しない図形」のこと。
「特徴的長さがない」ので、図形の一部分を拡大または縮小してもその図形の特徴が変化しないという性質がある。
ある事象にフラクタル性を見出すための鍵となるのが「ハースト解析」だ。
グラフはセシウムの大気中の濃度の変化の様子。非常にゆらぎがあることがわかる。
このゆらぎのフラクタル性を見出すにはどうすればよいか。
・1988年の1年間の揺らぎの平均値を求める。
・1年間という期間をT日間で分ける。各区間は1からNまでとなる。
・セシウム濃度の年間平均に対して、各区間での平均の標準偏差を求める。
・Tで区切られた期間を+1日、+2日、+3日…と徐々に長くしていく。
・Tの値が大きくなればなるほど、年平均に対しての各区間でのばらつきは小さくなる。
・T=365(1年)のとき、ばらつきはゼロになる。
これらのばらつきの小さくなり方を表したものが「ハースト解析」の数理モデルだ。
フラクタル解析を応用した長期予測数理モデル
放射線核種の動態にフラクタルな性質を見出す事ができれば、短期間の実測データを長期予測に適用することができる。羽田野先生が導きだしたのは「ある場所での放射線核種濃度の時間変化」を表す数理モデルだ。
ポイントは、大気中のダストに付着した核種が風で舞い上がって移動する「再浮遊」の効果を記述する際、風速の時間揺らぎにフラクタル的相関を取り入れたところにある。
この数理モデルで予測したセシウム濃度の減衰カーブをチェルノブイリでの実測データと照らし合わせてみると、ぴたりと一致する。
さらなる応用。地中への拡散を予測する
筑波大学 システム情報系リスク工学専攻
福地 峻
システム情報工学研究科リスク工学専攻博士前期課程2年(2015年3月修了予定)。
2011年より羽田野研究室にて放射性物質拡散に関する研究に携わる。
2012年より1年間、ノースカロライナ州立大学数学科に留学。
2015年4月から外資系金融機関に就職。
フラクタルと関係の深い統計モデルのひとつに「べき乗則」というものがある。「ロングテール」「ファットテール」といった特徴を持つグラフを見た事がある人も多いはずだ。
羽田野研究室に所属する福地 峻さんは、このべき乗則を利用して放射線核種の地中への拡散状況を予測する数理モデルを作っている。
福地 「セシウム137は半減期が約30年と長いんです。放射性物質が付着してしまった土壌をすべて削る事ができればいいですが、それは難しいですよね。空間線量は地表に付着したセシウムがどれくらい潜るかによっても大きく変わります。なのでセシウム137が地中にどれくらい潜っていくのかを研究する事は、土壌をどれくらい削ればよいのか、という観点からも有効な事だと思います。」
べき乗則を利用した数理モデルを使う事で、地中のセシウム濃度の予測に有効な結果が得られている。この研究に用いられている実測データは、インターネット上で公開されているものだ。汚染の影響がどの範囲で、いつまで続くのかというテーマは我々にとって人ごとではない。様々な人がオープンデータにアクセスして検討する事で、この分野の研究はさらに加速するのではないだろうか。
世界を記述する「良い道具」としての数理
新しいエネルギーや技術の開発など、様々な分野がある原子力工学の中で、放射性物質の動態研究はリスクマネジメントを担う研究分野だ。羽田野先生はなぜこの分野を研究し続けているのだろうか。研究の動機を伺った。
羽田野 「かつて高レベル放射性廃棄物を研究している時に、早く収束させたいという気持ちがありました。高レベル廃棄物は、人間が作った人工バリアで1000年間は保持しなければなりません。そのためには化学的変化や地下水の影響、バクテリアの侵食など様々な要因を考えなくてはいけないんです。我々は早く「これくらいは大丈夫です」という結論を出したいけれど、要因を探せば探すほど「大丈夫です」とハッキリ言えなくなってしまいます。私はそれを収束させたかったんです。」
まだわからないことがあるから安全ではない、と問題を発散させるのは簡単だ。だが、それよりも「いつ安全になるのか」という解を早く出すことの方が大切だと羽田野先生は語る。
羽田野 「10年後はここの地域の人は帰れるはずだ、ということが解ればそこからやらなくちゃいけないことがたくさんあるはずです。そういった実用的なことにつなげたいんです。」
福地 「10年後にどの程度、濃度が下がっているのかはわかった方がいいじゃないですか。汚染地域から避難されている方にとってのメドが立ちますし、除染をどの程度すればいいのかということがわかる事も大きな助けになると思います。助けたいという気持ちもありますし、実際によくわかっていない現象に対して勉強していくとどんどんわかっていく、という楽しさや知的好奇心。その2つが自分のモチベーションになっていますね。」
羽田野 「人に喜んでもらえる、何かをやらなくちゃいけないことがあった時に、いい道具となれる。そういう研究をしたいと思っています。」
羽田野研究室での取り組みは、研究分野での新たな知を開拓するだけでなく、放射線被害の不安や苦しみを抱える人達にとっての道しるべにもなっている。